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光明寺

光明寺は、長岡京市粟生にある西山浄土宗の総本山の寺院で、法然上人が初めて念仏の教えを説いた地です。 平家物語で知られる熊谷次郎直実が建てた念仏三昧院が光明寺の発祥と伝わります。 紅葉の名所としても知られています。

光明寺の見どころを写真で紹介します

 

No.1 総門

No.2 「浄土門根元地」の石碑

No.3 表参道

No.4 鈴鹿野風呂の石碑

No.5 阿弥陀堂

No.6 塩田紅果の石碑

No.7 鐘楼(堂)・梵鐘(鐘)

No.8 法然上人の「石棺」

No.9   御影堂

No.10 茂右ヱ門屋敷跡

No.11 鎮守社

No.12 もみじ参道

No.13 釈迦堂

No.14 御本廟

No.15 信楽庭・勅使門

No.16 法然上人御火葬跡 


No.1 総門

高麗門様式の重厚な総門です。1845年に幕末の名工木子棟躬の設計、大工小嶋久左衛門の施工によって建てられました。

扉口の柱間は4.4m。左右の築地塀には、5本の筋があり定規筋と呼ばれる白い水平線が引かれています。定規筋の数が寺の格式を示し、5本線が最高格式を表します。 

No.2 「浄土門根元地」の石碑

法然上人は24歳の時、比叡山を下りて奈良へ修行の途中、ここ粟生の茂右衛門宅で一泊しました。

その時に茂右衛門からお願いを受けた通り、20年後に専修念仏を茂右衛門に授け、粟生野を念仏の教えを説く地に選びました。

この故事により「浄土門根元地」となりました。

No.3 表参道

総門から御影堂へ続く参道は、明治時代に完成しました。

御影堂を仰ぎつつ女性やお年寄りでも苦労なしに登れる様に造られており「女人坂」と呼ばれています。

また、信者の方々が、東に流れる小畑川より、心を込めて石を運び完成させたことから「念仏石坂」とも呼ばれています。



No.4 鈴鹿野風呂の石碑

鈴鹿野風呂の句碑「浄土門  ここにはじまる   照紅葉」が、もみじ参道と表参道の分岐に立っています。

鈴鹿野風呂は1887年に京都に生まれ、京都帝国大学を卒業。

俳句雑誌「ホトトギス」を通じて高濱虚子に俳句を学び、日野草城らと「京鹿子」を創刊した俳人です

No.5 阿弥陀堂

阿弥陀三尊を安置します。ご本尊の阿弥陀如来立像は念仏三昧院の時代からお祀りされています。

阿弥陀堂は、当初、御影堂の東北方にありましたが、享保の大火後現在地に再建されました。

平安浄土教の伝統的な様式を踏まえており、近世浄土宗寺院としては異色の建築物です。

No.6 塩田紅果の石碑

表参道を登りきった所に塩田紅果の句碑があります。塩田紅果は昭和初期に活躍した俳人です。

光明寺のことを「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」(静寂の中に囀ずる鳥の声、また、桜の季節には花吹雪と、まるで極楽のその中にいるような世界に引き込まれてゆく)と詠んでいます。



No.7 鐘楼(堂)・梵鐘(鐘)

鐘楼の建築は1657年頃とみられます。「享保の火災」を免れ、寺内では御本廟についで古い建築です。

梵鐘は1949年に再鋳されました。「遣迎鐘」とも呼ばれています。お釈迦さま(発遣)と阿弥陀さま(来迎)が鐘と撞木のように出会うことを象徴しています。

No.8 法然上人の「石棺」

法然上人御入滅16年後の嘉禄の法難の折、迫害者の手から御遺骸を守るために、この石棺を太秦広隆寺の近くの藪に隠しておいたと伝えられています。

この石棺から一条の光明が放たれ、粟生の地を指し示したことから、法然上人の御遺骸をここで荼毘に付すことになりました。

No.9 御影堂

光明寺の伽藍の中心は御影堂です。

御影堂は何度か火災にあっており、現在の建物は1754年に建てられたもので、近世浄土宗本堂の典型的な建築様式です。

京都の浄土宗寺院本堂としては最大級であり、長岡京市では最大の木造建築です。御本尊は法然上人の御自作「張子の御影」です。



No.10  茂右ヱ門屋敷跡

1156年法然上人24歳の時、教えを求めて、比叡山から奈良へ訪問途中、長岡京粟生の茂右ヱ門邸に一夜の宿を借りられました。

1175年43歳、誰もが救われる教えに辿り着かれた法然上人は、この地に再訪して初めて念仏の教えを説かれました。その長者屋敷跡と伝えられています。 

No.11 鎮守社

法然上人のご遺骸がご火葬される時、2羽の鳥(カラスとハト)がやってきました。

カラスは熊野、ハトは石清水の使鳥であり、門弟の幸阿上人が、法然上人の火葬を悲しんで両宮の神様がお使い下さったのだろうと気づかれました。

そして熊野権現、石清水八幡宮の両神を崇め奉りました

No.12 もみじ参道

総門を入って左に分岐する参道で、もみじ参道と呼ばれています。

1854年、第650回蓮生忌に整備されました。約200mの間に250本程の紅葉が植えられています。秋には錦彩る紅葉が、今の時期は青もみじが綺麗です。

もみじ参道の中腹に位置する薬医門は1676年に建立されたものです。



No.13 釈迦堂

1736年に造営されました。規模と平面構成は禅林寺方丈の規格を踏襲して設計されたとみられます。

御本尊は釈迦如来立像で、別名は「頬焼けの釈迦」。久御山町東一口の安養寺に伝わる「弥陀次郎縁起」伝承のお釈迦様です。

※釈迦堂の写真の代わりに、光明寺全景の一部を抜粋します

No.14 御本廟

御影堂の後ろ、寺地の最上段の一画に御本廟があります。

宗祖である法然上人(五重石塔)と蓮生(五輪塔)をまつる御廟と拝堂からなり、廟門と石柵がそれを取り囲みます。

1656年、倍山上人が再興した光明寺で最も古い建物です。

拝堂も同時期の建物で、念仏堂とも呼ばれます。

No.15 信楽庭・勅使門

信楽庭は、白州に18個の大小の石を配して、阿弥陀三尊をはるかに仰ぎつつ1人の行者が生死の大海を渡る姿を表現しているといわれています。 

 

勅使門は、朝廷からの勅使参向の時、勅使の通行に使われる門です。1860年に竣工、1810年に左右の脇塀が九条家から寄進されました。



 No.16 法然上人御火葬跡

法然上人は1212年 80歳でご往生されました。

ご遺骸は京都の東山の地に一度は埋葬されましたが、1227年 旧仏教からの迫害から逃れるため、東山の大谷から京都太秦に移し、さらにはこの粟生の地に再度移して荼毘に付しました。

 

その御火葬跡に勢至菩薩をお祀りしています。