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向日市の史跡

乙訓地域(向日市・大山崎町・長岡京市)は、古くから人々が生活を営み、交通の要衝として栄えてきたため、長い歴史の中で育まれた多くの史跡が残されています。

 

向日市には、向日神社、長岡宮跡、古墳群などの史跡がたくさんあります。 

向日市の史跡を写真で紹介いたします。

 

No.1 物集女車塚古墳

No.2 淳和天皇火葬塚

No.3 中海道遺跡

No.4 物集女城跡

No.5 来迎寺

No.6 桓武天皇皇后陵

No.7 寺戸大塚古墳

No.8 竹の径

No.9 五塚原古墳

No.10 向日市文化資料館

No.11 築榊講常夜灯

No.12 築地跡

No.13 鴨田遺跡

No.14 桜の径

No.15 内裏内郭築地回廊跡

No.16 北真経寺

 

No.17 東院公園(離宮跡)

No.18 鶏冠井遺跡

No.19 春宮坊跡(かしの木公園)

No.20 森本遺跡

No.21 朝堂院跡

No.22 大極殿・小安殿跡

No.23 大蔵跡(西山高校)

No.24 石塔寺

No.25 南真経寺

No.26 説法石

No.27 西国街道

No.28 中小路家住宅と歴史の道

No.29 向日神社

No.30 元稲荷古墳

No.31 須田家住宅

No.32 旧上田家住宅



No.1 物集女車塚古墳

古墳時代後期(6世紀中ごろ)の全長約46mの前方後円墳です。

地元では平安時代の初めに亡くなった淳和天皇の棺を運んだ車を埋めた墓との言い伝えから「車塚」と呼ばれ、大切にされてきました。

京都府の史跡として指定を受け、毎年、石室内部が一般公開されています。

No.2 淳和天皇火葬塚

淳和天皇は長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承しました。

在位中は、政治改革を行うとともに「日本後紀」の編纂を行いました。

遺言により火葬され洛西大原野の小塩山に散骨されました。この塚は天皇を火葬した場所とされています。

No.3 中海道遺跡

弥生時代後半を中心とする村の跡です。

発掘調査により発見された「祭殿」は東西8m、南北8.6mの掘立柱建物で、3世紀中頃の卑弥呼時代のものです。

当時日本の社会はいくつもの小さな国に分かれ、力を競っていましたが、中海道にもそうした国の王がいたのかもしれません。



No.4 物集女城跡

周辺を支配した物集女氏の居城と考えられ、発掘調査により、南北75m、東西70mの規模を有する城であったことがわかりました。

織田信長より桂川西岸一帯の支配を任された細川藤孝は、周辺の各城主に従うよう命令しましたが

物集女氏はこれに従わず勝龍寺城で殺されました。

No.5 来迎寺

浄土宗西山派光明寺の末寺です。

境内の曼荼羅板碑と宝篋印塔は、向日市の文化財に指定されています。

曼荼羅板碑は、密教での仏の悟りの境地である宇宙の真理を表現したもので、鎌倉時代末から南北朝時代の製作と推定されます。

宝篋印塔は、供養塔の一種で1348年の製作です。

No.6 桓武天皇皇后陵

長岡京を築いた桓武天皇の皇后の墓で宮内庁陵になっています。

直径約65m、高さ約7mの円形をしており、もとは古墳時代前期の円墳であったとされています。

正式には、諡号を天之高藤廣照姫之尊、藤原乙牟漏といいます。



No.7 寺戸大塚古墳

古墳時代前期(4世紀前半)の全長約98mの前方後円墳です。

墳丘の斜面には葺石とよばれるこぶし大の石が敷き詰められ、平面の部分には埴輪が大量に並べられていました。

出土した埴輪や副葬品は、前期古墳時代を調べる基準資料とされています

No.8 竹の径

全国でも良質なたけのこの産地として知られる西ノ岡丘陵の竹林の景観を守るため、特産の孟宗竹を使って2000年度から整備されてきました。

道脇には、全長約1.8kmに亘り、7種類の竹垣が設けられており、「全国遊歩百選」などに認定され、竹林浴の地として親しまれています。  

No.9 五塚原古墳

古墳時代前期(3世紀後半ごろ)の前方後円墳(全長約91m)です。

完全な形で残っていますが、発掘調査は墳丘の一部のみのため、埋葬施設などは謎に包まれています。前方部の形は、三味線のバチに似ているので「バチ形」と呼ばれ、前方後円墳出現期の古墳の特徴です。



No.10 向日市文化資料館

1984年に開館し、歴史学、考古学を中心とした資料を展示しています。

常設展示室では、長岡京跡の出土品を中心に、貴族や役人・庶民の衣服や食べ物を復原し展示されています。

展示室の中央には、長岡京の中心部である大極殿や朝堂院の復原模型が展示されています。

No.11 築榊講常夜燈

常夜燈は、街灯の役割を果たすとともに、街道の道しるべや信仰の対象でした。

西国街道を行きかう人々の夜道を照らし、町のシンボルとして親しまれてきました。

築榊講とは、この付近の伊勢神宮を信仰する人々の集まりで、その人達が建てたため、この名前がつきました。

No.12 築地跡

築地跡は長岡宮の役所を囲う塀(土塁)の跡で、地上に残された唯一の遺構として、1981年に国の史跡に指定され整備されています。

長岡宮内裏内郭築地回廊(内裏公園)の真南にあたり、南北に一直線上に位置することから、長岡京の建物が規則的に建築されていたことがわかります。



No.13 鴨田遺跡

上植野町鴨田一帯にあった弥生時代前期(2400年前)から古墳時代後期(1500年前)にかけての大きなムラの跡です。

ムラは、川の南側の扇状地を利用した、東西約900m、南北約700mにわたる大きなものです。村の東側には水田が、北と南側には墓地が広がっていました。 

No.14 桜の径

阪急西向日駅南東に桜並木が広がる閑静な住宅街にあります。約300本のソメイヨシノが植樹され、噴水公園を中心に町並の景観を生かした散歩道として整備されています。

桜の満開時には、町並と桜との美しいコントラストが見る人の心をうっとりとさせてくれます。

No.15 内裏内郭築地回廊跡

内裏とは、古代の都における天皇の住まいで、現在の皇居にあたります。大極殿は政治を行う天皇の公的な場に対し、内裏は私的な場でした。

長岡京の内裏は約160m四方の広さで、内裏正殿や後宮などの諸施設を囲う廊下のついた塀を、内裏内郭築地回廊とよびます。



No.16 北真経寺

1307年に日蓮の孫弟子の日像が、鶏冠山の真言寺の住職、実賢に日蓮宗の教義を説き、村民すべてとともに改宗し法華信仰の中心地となりました。

1654年、僧侶の学問所「鶏冠山檀林」を開き真経寺を南北に分け、北真経寺を檀林の場、南真経寺を村人の信仰の場としました。

No.17 東院公園(離宮跡)

温水プール建設の発掘調査により、大規模な建物跡が発見されました。 当初、桓武天皇が仮の内裏として住まいした東院の候補地として復元整備されましたが、後の発掘調査により、天皇や皇族が本来の住まいとは別に設けた宮殿の離宮ではないかと考えられています

No.18 鶏冠井遺跡

 向日市民温水プール一帯の低地にあった、縄文時代中期から弥生時代中期のムラ跡です。縄文時代のごみ捨て場や弥生時代の水路、住居跡、多数の土器、墓の跡などが見つかっています。

弥生時代の鶏冠井ムラは京都盆地の中で最も早く稲作をはじめた集落の一つです。



No.19 春宮坊跡(かしの木公園)

長岡京の宮域の一番左側に東一坊大路が南北に通っていました。この西側溝から数多くの遺物が見つかりました。

その中に「春宮坊」という木簡があり、皇太子に関係する役所があったことが分かりました。他の遺物からも皇太子の食膳や、華麗な服装が窺えます。

No.20 森本遺跡

 阪急京都線の西向日駅と東向日駅のほぼ真ん中、向日市立第3向陽小学校の附近にあった縄文時代後期から古墳時代にかけてのムラ跡です。

発掘調査では灌漑用水路と水田の畦畔跡が見つかっており、同時に出土した人面土器はこうした労働に携わった人々の顔を伝えてくれます。

No.21 朝堂院跡

約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞が関のように国の役所が建ち並んでいました。大極殿と朝堂院はその最も重要な施設です。

朝堂院は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。唐の長安がモデルといわれています。東西に4つずつ、計8つの建物がありました。



No.22 大極殿・小安殿跡

大極殿は、桓武天皇が政治を司る場所で、小安殿は大極殿の北側で後ろに位置し、「後殿」とも呼ばれています。

大極殿の南側で前庭には「宝幢」と呼ばれる「のぼり旗」があります。発掘調査によって位置が確定し、現在は「大極殿公園」として整備されています。

No.23 大蔵跡(西山高校)

西山高校内で発見された倉庫、池、石組溝の跡です。

大蔵とは、全国から集められた税を保管する場所で国の金庫です。

当地は宮域の北辺部に位置します。付近には平安宮にある長殿とよく似た「殿長」という地名が残っており、建物の配置に共通性がうかかがえます。  

No.24 石塔寺

上植野町御塔道にあり、鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前にある法華題目の石塔婆のそばに堂を立て、石塔寺と称したのが創建と伝えられています。

 

毎年5月に石塔寺で開催される「花まつり」で披露される「鶏冠井題目踊」は京都府無形民俗文化財に指定されています。



No.25 南真経寺

真経寺は、江戸初期に僧侶の学問所(檀林)を開講するにあたり、南・北両真経寺に分かれました。南真経寺は鶏冠井村民の信仰の場となりました。

最初に「開山堂」を建立し、その後「本堂」「梵鐘」「鐘楼」などが整備され、現在に至っています。

No.26 説法石

鎌倉時代の末期、日像(日蓮の孫弟子)は、他の宗派からの迫害を受け、日蓮宗の布教活動を禁止され、京都から追放されました。

日像は、向日神社の石(説法石)の上で西国街道を行き交う人々に説法を行い、人々の心をとらえ、日蓮宗の信者が増えていったと伝わります。 

No.27 西国街道

 

 西国街道は、京都の「東寺口」を起点とし「向日町」を経て「西宮」に至る古い街道で、京から西国への主要幹線道路でした。

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に拡張整備され「唐街道」とも呼ばれました。

1992年に古い佇まいを残す家並の景観を活かし、散歩道として整備されました。



No.28 中小路家住宅と歴史の道

西国街道沿いの町並の中にある江戸~明治時代の旧家です。

幕末に、建てかえ願いの古文書が残る大形民家で国登録文化財です

街道沿いに白壁の土蔵や塀、門などが連なり、往時の景観を今に伝えます。

1990~91年に「歴史の道」として石畳に整備されました。

No.28 向日神社

西国街道に面した鳥居をくぐると、丘に向かって真っすぐのびる参道があり、登りつめたところにあるのが向日神社です。

平安時代の「延喜式神名帳」に「山城国乙訓群向神社」と記されている格式の高い古社です。

神社の伝承では、718年に建てられたと伝えられています。

No.30 元稲荷古墳

向日丘陵上の3世紀後半~4世紀の首長墓で出土した埴輪から最も古い前方後方墳(全長約92m)と考えられます。

ヤマト政権とつながりをもつ有力な首長の墓と推測されます。

前方後円墳は最も地位の高い人の墓であり、前方後方墳はその次の地位の人物の墓だったようです。



No.31 須田家住宅

 西国街道、愛宕道(現:物集女街道)、丹波道の分岐点にあります、

「松葉屋」の屋号を持ち、明治30年代まで、主に醤油の製造・販売をしていた商家(京都府有形文化財)です。

江戸時代、この付近には、米屋、酒屋など多くの商家が立ち並び、たいへんにぎわっていました。

No.32 旧上田家住宅

史跡長岡宮内裏内郭築地回廊の上に位置する旧家です。

2019年に国の有形文化財に登録されました。

ここは第二次内裏跡で、天皇の住まいだけでなく政務を行う場所でした。

築地回廊は天皇を警護するために造られた廊下で、真ん中に築地があり昼夜兵士が巡回していました。